君に幸あれ光あれ
普と晩年フリッツ親父
ギィ、と肘掛け椅子が男の重みに軋んだ。長年愛用したものだ、もう寿命が近いのかも知れない。
男は椅子の傷を愛しげに撫でる。形あるものはいつか失われる。
親しき者たちが自分よりも先に旅立っていったかの地に召されるのだ。
椅子に寄り添うように眠る愛犬を眺め、彼は思う。
ああ、いのちの何て儚いことか。ふと、
愛犬が目を覚まし、頭を持ち上げた。続いて聞こえた草を踏みしめる背後の音に、皺の刻まれた顔に浮かぶ表情が緩んだ。
「また此処にいたのか」
「ああ、私を探すのは楽だろう?私の日常は今や殆どがこの椅子の上にある」
「辛いのか」
「時々ひどく息苦しい、それに体中が痛むのだ」
「………」
「それよりも何をしに来たんだい、こんな老いぼれの元に」
「…お前はまだ俺の王だよ」
背後に立つ存在を視界に捉えることなく、男は目を伏せた。
王、そうだ、自分はこの国の王だ。自嘲するように笑んだ。こんな顔は見せたくなかったのだが、背後の男は気配で察したようだ。
少したじろいだようだった。かなわないな、と溜め息と共に小さく零すと、ひたりと止まっていた足音が再び草を踏み鳴らした。
そして正面に回り込んで止まる。閉じた目蓋の内側で赤く透けた視界が陰る。
「親父、なあ、フリッツ」
「もう私は長くない」
「俺もいつかは消える」
「考えることはないかい、死は解放だと」
「それは案外すぐのことかもしれねえし、まだ先のことかもしれない」
「痛みも苦しみもないんだ…神の御側に居るのはさぞ心地がいいだろうね」
「生き方こそ、俺は人間と違うけどよ」
「……………お前も死ぬときは人間と同じかもしれないね」
噛み合っていないような二人の男の問答は一本の線で繋がっている。
ただ見据えている方向が違った。それだけが、近いうちに道を違える二人の相違だった。
思えば、長い付き合いである。いまやこの世に生きる誰よりも、この男との付き合いが最も長い。
彼は出会ったときと殆ど姿を変えずに、男と別れることになる。
男の父親の後ろに付き従っていた彼は、同じく男にも付き従い、そしてよく懐いた。
名ばかりの妻との間には子供など出来なかった男には、守り育てるべき祖国であり、息子のようでもあった。
死に向かう男とは正反対に、多くの命を背負って生きる息子。
うっすらと目を開けると、太陽を背にした彼の銀髪がひどく眩しく見えた。
彼は光の中にあるのだ、きっとまだずっと先の未来まで。逆光で彼の顔が見えない。
「だから、約束をしに来たんだ」
「約束?」
「親父が死ぬ時、俺は傍にいる。その瞬間を看取る。
親父が今、独りになろうと人を避けてるのはわかってる、でも一人で逝かせたりはしねえからな。
後を追うことは出来ねえけど、最期までお前は王だから」
見送らせろよ、と彼は言う。男は彼の言葉にゆっくりと、目を開いた。
薄目を開いても彼の表情は見えない。彼は存外に幼くて寂しがりだ、孤高を気取るくせに、そういう部分があった。
だから、泣いているのかもしれないな、と男はぼんやりと考えた。
「じゃあ、私はお前を待っていてやろうか。生きた場所が同じなんだ、きっと死んだ後に辿る道も同じだろうさ。そうだろう」
「本当か!?」
そう言うと彼は声を弾ませた。光に目が慣れてきた男には、彼が紅い目を輝かせているのがわかった。
死後の話をしているとは思えない程の無邪気な瞳だった。
男は気付く。数多くの死を見、先代の王たちを見送ってきた祖国にとって、死は終わりではないのだ。
むしろ希望のようでさえある。血を透かしたような紅に、自分の老いた顔が反射していた。
この国のために自分が生きたという証が、この国自身に刻まれている。
死は解放だ、新たな時代への、生への希望だ。
しかし死に逝くものにはあまりにも寂しい。そうか、私は寂しいのだ。
本当だとも、鈍い痛みを無視して身を乗り出してきた銀髪を撫でた。
彼は男の心の支えである足元の愛犬のように、素直に目を細めて笑った。
男は穏やかな気分だった。同時に満ち足りた気分でもあった。
男は孤独ではない。ああ、
「我が国に光あれ」
なんだよそれ、と煌めく光の中で男の祖国は笑った。
プーは死というものに慣れすぎてあまりセンチメンタルになってくれない
なでなでプロイセンショックによる妄想でした
(10.12.01ログ、11.03.21up)