彼について
パラレル、死にネタ。王耀の生涯。
王耀という人間を一言で表すならば守銭奴以外に的確な言葉はない、と誰もが言った。
王の金への執着は誰が見ても異常だったからだ。王は若くして巨大な企業グループの会長を務めていた。
まだ同年代は気楽な学生生活を送っているような最中、王は起業した小さな会社を
天才的な手腕と知恵、そして強運によって驚異的なスピードで成長させたのだ。
勿論、それは血反吐を吐くような努力の上にある成功だった。何より金儲けに貪欲な彼の強い信念がそれを支えたのである。
どうしてそこまで金が欲しいのか。尋ねた誰もが王に答えを貰えたことがなかった。
そして、王が集めた金はなかなか使われない。経済は金の巡りであるというのに、彼の財布の紐は異常に固かった。
湯水のように金を使ったとしても使い切るには何十年とかかるだろう、それだけの財産が王にはあった。
しかし、豪華絢爛な豪邸を建てることも、宝石で身を飾ることも、美しい女を買うこともなかった。
何故金を使わないのか、という問いに対する答えは至極単純だった。
王は手に入れた金を使うことには全く興味がなかったのだ。
金をただただかき集めること、それだけが彼の生きがいであった。
ある日王は一人の子供を引き取った。それが菊だった。
菊と王は遠い親戚同士である。王の一族は決して裕福ではなかったが、貧しくもない。
しかし、王の家庭は非常に貧しく、明日の米を用意することさえ困難だった。
それでも必死に働く両親を一族は見て見ぬ振りをして、一切の扶助も援助も放棄し揃って背中を向けた。
それどころか、ぼろぼろの服を着たみすぼらしい親子の姿を陰であざ笑ってすらいたのだ。やがて両親が死んだ。
母親の死因は病死、父親の死因は過労死であった。
母の病気は決して治らないものではなく、つまりは医者にかかる治療費が支払えなかった故に重症化したものだった。
何とか治療費を稼ごうとした父が過労死に至るまでに働いて残した金が、当時の王少年の全財産である。
彼はその僅かな金を手に家を出た。
当時の悔しさと極貧生活での苦労、そして両親の葬式どころか満足な墓すら建てられなかった深い悲しみ、
思えばこれらが王に異常なまでの金への執着心を芽吹かせたのかもしれない。
そういうわけで、自分の金を頼って掌を返したように媚び、すり寄ってくる親族達を王は酷く疎んだ。
しかしながら、たった一人、王一家と同じように酷く貧しい生活を送っていた女性だけは、
両親を喪った王を励まし、共に泣いてくれたことを思い出す。
彼女は美しい女性であったが娼婦だった。貧しさ故に彼女が売るものと言ったら、もう自らの若い身体しか無かったのだ。
彼女もまた、親族に後ろ指を指されながら生きていたのである。彼女は王の曾祖父の姉の孫だった。
そんな遠い縁であったが、あの時僅かでも王の心を慰めた存在を今の今になって思い出した王は、彼女を探した。
しかし神の悪戯か、探し当てた彼女は息子を一人残し、数日前に他界したという。つまり、それが菊の母親だったのである。
菊は王の戸籍上の息子となった。
王が31歳、菊が13歳のときのことである。
菊を引き取った王は、努めて優しく接していたという。
王は金にこそ目が無かったが、しかし情を蔑ろにする人間でもなかった。
勿論今まで全く面識の無かった菊を引き取った意図には、菊の母への感謝の気持ちと共に僅かばかりの打算も含まれていたのは確かだ。
財産目当てで舞い込む縁談や、女の誘いに正直うんざりしていたのだ。
「後継者は我の息子、菊ある。」
その気はなかったが、こう宣言してしまえば、少しそれらも大人しくなってくる。
養子とはいえ、菊は確かに王の血縁であり、全くの不自然な縁という訳でもない。
諦めの悪い人間が菊は娼婦の子供ではないか、品格が損なわれるのではないかと意地悪く指摘すると、王は冷たい目で言ったそうだ。
我はかつて、ろくに風呂にも入れず継ぎ接ぎだらけの服を着たみすぼらしい子供であった。
飯も満足に食えずに痩せ細った、薄汚れた子供であった。
そう生まれたくて生まれた訳では、勿論ない。
それを菊に言うのであれば、お前は我の過去をも否定しているも同じある、と。
菊は賢く聡い子供であった。教えたことはスポンジが水を吸うように吸収した。
王が、これなら本当に後継者と認めてやれるかもしれないと思えるほどに頭の回転が早く、何より真面目な子供だった。
貧しかった環境こそが彼の発達を阻害していたのだ。
王が教養と学習の機会を与えただけで、菊はその年にしては出来過ぎな程に優秀な子供になった。
王は、この子供の努力を惜しまない性格をいたく気に入り、ますます可愛がった。
菊も菊で、母親の死の悲しみから立ち直ってからは、自分を拾ってくれた王に心から感謝して、王を慕うようになった。
彼らは書類上は親子であったが、年の離れた兄弟のような関係でもあったという。
王は遊び相手のいない菊のために、孤児院から三人の子供を引き取った。
たった一人の少女は気が強いけれど優しい子供である。
残り二人の少年は、一人は静かで冷静な子供であったがもう一人は反対に騒がしく元気な子供であった。
各々なかなかに個性が強かったが、菊と三人は打ち解けていった。
この頃から、王自身は菊と会えないことが多くなっていたが、部下に菊と三人の子供の様子を聞いては胸をなで下ろし、仕事に打ち込んだのだった。
さて、敢えて強調するが菊は賢く聡い子供だった。
幼い頃から母親と共に他人の顔色を伺いながら、慎重に行動選択をする癖がついた、賢い子供だった。
だから、菊は王という人間を客観的に捉え分析する。4人の子供を家に受け入れた王の金への執着は以前と大して変わらない。
王は自身がそうであるように、子供たちにも必要以上に贅沢はさせなかった。
とはいえ、一般家庭の水準よりは随分と裕福であった訳だが。菊は王の金への偏屈した執着心に気がついていた。
どうして金を使わないのだろうか、あれだけの金があれば全身をいくらでも高級品で着飾ることが出来るのに。
しかし、菊はそのうちに王とはそういう人間なのだと納得することで、その疑問を投げた。
最低水準以下の生活から、今の生活に拾われた菊もまた、金をやたらと使うことには必要性を感じなかったからだ。
王にとって何より大切なのは金だ、そして嫌うことは散財すること。
菊は観察と交流の中で王という人間を把握した。
恐らくそれは真理であった。真理の全てではなかったが、真理の断片であった。菊は賢かった。
この頭の良さが、彼を緩やかな自殺へと向かわせたのである。
菊は王の与えてくれた環境でひたすらに勉学に励んでいたが、身体は決して丈夫ではなかった。
母親からの遺伝である。季節の変わり目には風邪を引いたし、1日働けば熱を出して寝込んでしまう。
しかし、あくまでも「少し体力のない子供」だという程度だった。
だから王も菊と三人の子供たちに年に一度検診を受けさせてはいたが、あまり深く気に止めてはいなかった。
「菊さん、どうしたの?何だか顔色が悪い」
「真っ白なんだぜ!」
「大丈夫すか、疲れてるんじゃ」
「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ、ただの寝不足です」
「また夜遅くまでお勉強していたんでしょう!だめですよ!」
「よくあんなのやろうと思うよな。俺は眠くなるんだぜ…」
「ヨンスはほら…アレだから」
「アイゴー!馬鹿にした目で見るんじゃねー!」
「もう!うるさい!」
三人の家族に菊は思わず苦笑する。
その柔らかい表情を見て三人の少年少女たちは内心で安心しながら、菊を元気づけようといつもより少々賑やかに騒いだ。
菊は穏やかに笑ってみせて、静かに三人を見守っていた。
このとき菊がさり気なく、痛みを堪えるように手を握りしめていたことに気づいた人間はいなかった。
そうして周りが菊の異変に気がついたときには全てが手遅れだった。
心臓の病気だった。病魔は音もなく、しかし気がついたときには菊の生命力を致命的なほどに奪っていた。
治らない病気ではなかった筈だった、治療が早ければ。
あと半年早ければ、と国一番の名医は言った。
あと3ヶ月早ければ、と世界で最もその病気の権威とされた医師は言った。
最善は尽くす、と言ったその医師の暗い目が、もうどうしようもないのだということを暗に告げていた。
「だって、きっと、たくさんのお金がかかってしまう。あなたは…私にとても…よくしてくれたから。
母の死を、私以外で、唯一…悼んでくれたから。あなたにだけは、ご迷惑は、おかけしたく…なくて…」
菊は賢い子供だった。
王という人間の真理の一つを拾い上げて、完璧に演技をしてみせた。
ここに至るまでには酷い痛みも苦しみも恐怖もあった筈なのに、誰も気づけなかったのは菊がいつも微笑んでいたからだ。
家族に囲まれて幸せそうに微笑んでいたからだ。菊は王にとって、何よりも価値があるのは金だと考えていた。
死にたい訳ではなかった、怖い、だが王の大切なものを奪ってまで生きたくもない。
しかしながら、それは真理の一部分でしかない。王にとって、いまや最もかけがえのないものは家族だった。
もしものときは、全てを投げ出してでも子供たちを守ろうと決めていた。
菊のしたことはそんな王への裏切りでもあり、緩やかな自殺だった。
死ぬだろうと悟っていて声を上げず、長い間痛みを堪えながら、着実に死に向かう、それは傍目から見れば確かに自殺だった。
王はここ何十年誰にも見せたことのない涙を流しながら、痩せ細り弱った菊が横たわるベッドに縋りついて慟哭した。
己の金への執着が菊を死に追いやるのだと思うと堪らなかった。
ああ、ああ、ばかな子だ!お前の命の前では金なんて何の価値も無いのに!
それが王の真理の全てであったことを、菊は死ぬ間際に知って、それから微笑んだ。
王も三人の家族たちをも騙したその笑顔で微笑んだ。
自分の存在の価値を、彼の涙に見いだせたことが何よりも幸せだったからだ。
そうして、数ヶ月後菊は灰になって小さな箱に納められた。菊はこのとき19歳、若すぎる死であった。
菊の希望により、菊の墓はこじんまりとした菊の母の墓の隣りに建てられた。
花を手向けながら、悲しみに沈む王に三人の子供たちは静かに寄り添う。
子供たちは王の元に来てから随分と成長して、二人の少年は既に王よりも背が高い。
馬鹿なこと考えないで下さいね、私たちにはもう、老師しかいないのよ。
美しく育った少女は泣きながら王の背中を抱く。
この三人がいなければ確かに自分は菊の後を追っていただろう。
王は三人を抱きしめて、菊の墓に向かって別れを告げた。
それからの王は、長年の癖が抜けずに相変わらず金を集めたけれども、それらを慈善事業に役立てることが多くなった。
王の金は、菊のように病魔に蝕まれた子供の命を多く救った。
年を取って三人の子供たちがそれぞれ家庭を持ち、十分な地位とスキルを身につけると、会社を全て引き継がせた。
王は持ち前のマイペースさで気楽な隠居生活を謳歌し、老衰で死んだ。
百歳を超える大往生で、大勢の家族に見守られ、眠るように亡くなったという。
金に運命を翻弄された王耀の長い人生はこうして幕を閉じた。
最期は穏やかに笑っていたそうだ。
その顔はまるで、菊の死に顔のように幸せそうなものだったという。
(10.11.13ログ、11.03.21up)