喫茶店





島国が夫婦だったりするんで注意







今日もロンドンには雨が降っている。
毎朝、大通りを少し外れた小さな喫茶店の窓際の席で、新聞を読みながら紅茶を飲む。
これは学生の頃からの習慣である。決して金に余裕があるわけではなかったが、殆ど欠かしたことがない。
月に一度の定休日以外のほぼ毎日、同じ席で同じ時間帯に紅茶を飲むことは、俺にとってなくてはならない大切な時間だ。
気の良い店主とはすっかり顔馴染みで、時間のある休日には時々サービスにサンドイッチを添えてくれることもある。


ある朝、いつものように店の扉を開くと、店主が顔を上げて俺を見た。

「ああ、ほら。彼だよ」

見ると、店主の前にスーツを来た東洋人が立っている。店主の言葉に此方に背を向けていたその男が振り返った。
からんからん、俺が開いた扉が鈴を鳴らしながら静かに閉まる。
男は吸い込まれるような闇色の瞳だった。あまり視力がよくないのか、焦点を合わせるように少し眉間にしわを寄せて俺を見た。
それから体ごと此方に向き直る。

「…どうも。初めまして」

男はそう言って頭を下げた。
店主の知り合いではないだろう。恐らく俺を訪ねてきたのだ。
俺はいつもこの時間に此処にいるから。

「……日本人、か?珍しいな、この店に…」
「………そうですよ、日本人です。
 貴方こそ珍しいですね、此方ではアジアンといえば中国人という印象が強いのか、大抵は真っ先に中国人だと思われるものなんですが」
「あ、いや…」

店主が後ろで吹き出したので、軽く睨んだ。店主は不躾に余計な口を挟むような男ではない。
俺の視線を受けて大袈裟に肩を竦めると、にやりとした。…彼に人をからかうのが好きな一面があるのは確かだ。
男は本田と名乗った。店主は微笑んで本田に席につくように促した。俺の指定席の正面の席だ。
俺はため息を吐いて、いつもの席に腰かける。
本田は俺が働く会社の取引先の会社に勤めている男だった。
今度、共同で行うプロジェクトの担当者だそうだ。
かく言う俺もそのプロジェクトの責任者を任されていた。どうやら律儀にも俺に挨拶をしに来たらしい。
連携企業の関係でプロジェクトの開始が早まったため、顔合わせが遅れることになった。
本田はせめて責任者だけでも挨拶を交わしておくべきだと考えたのだという。


「出勤前にごめんなさい。でも、毎朝此処にいると貴方の同僚の方に伺ったので」


残念な友人や同僚の多い俺は本田の礼儀正しさや誠実さにいたく感動した。
本田との出会いは少なくとも生活の楽しみを増やしてくれた。
この喫茶店での初対面から、本田とは気が合い、会話するようになったのだ。
三日に一度ほどの頻度で俺と同じく出勤前の本田は店にやって来て、共に茶を飲む。
店主が本田に合わせて日本茶を仕入れて出してやったときの本田の興奮ぶりは凄かった。
祖国を離れて、この英国の地で生活していると故郷の味が恋しくなるのだという。

本田とは会社やプロジェクトの話だけでなく、好みや私生活の話もしたが、本田の交友関係についてはあまり踏み込んで聞かなかった。
それは、俺自身が周りとの交友関係が薄かったことも影響している。
仕事上の付き合いなら腐るほどあるが、友人としてのつきあいをする人間は恥ずかしながらあまりいない。
いるにはいるのだが、どいつもこいつも身勝手な奴らで友人として紹介するのは癪に障った。
そういうわけで、本田に対しても根掘り葉掘り話を聞き出すような真似はしなかった。
あまり自分のことを話したがるタイプにも見えない。非常に付き合いやすいタイプだった。

俺は本田について知らないことが多かった。






そんなある日、緊張した面持ちで本田がそわそわとして言った。
いつものように、いつもの席で紅茶を飲んでいた朝のことだ。

「今度、…結婚するんです」
「え!?そ、そうなのか」

正直、恋人がいることも知らなかったので寝耳に水だった訳だが、何とか茶を吹き出さずにすんだ。
まあ、確かに真面目な男だし、給料だってそれなりに貰っているはずだ。
女が放っておく訳がないか。

「で、あの」
「ん?」
「式に、お呼びしたら、その…いらして下さいますか?」

そう言って本田は困ったように俯いた。まるで、俺が肯定するわけがないと思っているかのような顔だった。
その態度は少し心外だった。俺が思っていたよりも、俺たちの親交は浅かったのだろうかと。

「あ、当たり前だろ!その、ほら、友達、だろ!」
「!!…………そ、そうですか、そうですね。私たち………友達ですよね!!」
「ああ……うん」
「はっ、す、すみません。急に大きな声を…」
「いや、謝るなよ。お前、割りとでかい声出せるんだな」
「どういう意味ですか…………ふふ」
「?」

本田が吹き出したので、それをきっかけに俺は広げた新聞を畳んだ。
本田は口元をゆるめて、表情を崩した。彼と付き合いが浅い人間ならば、この微妙な変化に気付かないだろう。
一見彼は感情表現が乏しい。しかし、本田を知ると少しずつ彼のあり方も理解できるようになる。
恐らく俺も同じなのだろう。俺自身が気づいていない癖や態度を本田はきっといくつか把握している。
だから、本来頑固な二人がこうしてうまく付き合っていけるのだ。

「私ね、英国に来たばかりで不安だったのです。式に誘う友人もあまりいませんしね。今までと全く違う環境でこの先やっていけるのかと」
「本田…」
「日本の街は移り変わりが早い。この前経った店が、今日には新しい店に、なんてよくある話なんです。
 だから、変わらないこの街は少し落ち着きます。私はこの街に慣れたい、変化のないものに安心したい。
 私が慣れないままに移り変わる環境は、落ち着かないのです。」
「そうか……」
「…貴方は、きっと一年後も二年後も変わらずこの席で紅茶を飲みながら新聞を読んでいるんでしょうね」

本田はそう言って笑った。俺も店主の後ろ姿を見やりながら苦笑して頷いた。
店主が目尻に皺を刻む前から俺はここに通っているのだ。
店主自身、この店の味を誇りに経営を続けてきた。余程のことがなければ店を畳むこともしばらくないだろう。
つまり、俺もしばらくは此処に通い続けているのだろうな、と思う。

「っと、そろそろ時間だな」

腕時計を見る。そろそろ会社に向かわなければならない。
新聞をもう一度畳み、空になった紅茶のカップを端に寄せる。それから、俺と本田と二人分の請求書を手に取った。
本田が慌てたように俺から自分のそれを取り返そうとしたので、その手を避けるようにして立ち上がる。

「いけません、カークランドさん。そんな、自分で払いますから」
「いいんだよ、勘違いすんな。今日だけだ、結婚祝いだよ」
「でも」
「あ、いや、これだけってことはないからな。ちゃんとしたのはまたやるから。あくまで前祝い」
「そんな、やっぱり悪いですよ。いつもお世話になってしまってますし」

本田は俺のもつ請求書から目をそらさない。
店主は俺と本田のやり取りに気付いて、少し目を丸くしたが俺が目配せすると手を振ってきた。
俺も請求書を掲げて見せる。店主はふざけた様に「太っ腹だな!」と快活に笑った。
紅茶の一杯で申し訳なさそうに眉を下げる本田に、俺は続けた。

「……本田が結婚する相手は、日本人か?日本語がわかるか?」

問うと、本田は瞬きをして首を傾げた。

「いえ、英国の方ですよ。でも、彼女は日本語が理解できます。
 そもそも彼女が日本に留学してきたのが私と彼女の出会いだったので」

違和感なく話せますよ。それを聞いて安心する。俺は財布を取り出しながら本田に微笑みかけた。
家で辞書にラインマーカーをひたすら引きながら、ボキャブラリーを増やそうと躍起になっている存在を思いながら。

「じゃあ今度、俺の妻の話し相手として家に招いていいか?日本人なんだが、なかなか周りに馴染めないようで苦労してるんだ」

本田は俺の薬指に光るリングを見て、少し呆けた顔をした。どうやら独り身だと思われていたらしい。
そういえば俺の左手はいつも広げた新聞に隠れていた。だから、リングに気付いていなかったのだろう。
隠していたつもりは毛頭なかったのだが。
すぐに本田は表情を和らげて、是非、と微笑んだ。

本田の夫妻とはこれから長い付き合いになるのだけれど、それはまた別の話である。







日にょ英夫婦(仮)と英にょ日夫婦のクロスオーバー的な。もう何が何だか。
英にょ日はすでに夫婦。奥さんが日本人だから、アジアン見ても「日本人?」と考える選択肢があるわけです。
でも人見知りだし英語に自信がなくて閉じこもりがち。日にょ英は婚約中。

これから妻は妻同士仲良くなるんだよ!みたいな。






(10.09.11ログ、11.03.21up)