気がつくと、私は海上にいた。足元がふわふわと覚束ない。私は、緩やかに船に揺られていた。
遠くでかもめが鳴いている。強い潮の香り と波の音。はて、何故私はこんなところにいるのだろう。
私――――?ああ、自分の名前が思い出せない。
ただ、沢山の大切なものを忘れているような、そんな感じがする。
疎らな記憶、確か私は一人で暮らしていて、ふわふわとした毛の犬を飼っていて、散歩が好きで、それから?
覚えていること、いないことがぐちゃぐちゃだ。
そうだ、はっきりと覚えていることが一つ。

私は長い長い時間を生きてきた、人間ではない何か、である。
膨大な年数を生きてきた記憶がある。
何だったかは思い出せない。



青い空の下、青い海の上、甲板の上で一人途方に暮れる。
すると、後ろで派手な音と高い悲鳴が聴こえた。

「ひゃー!」
どんがらがっしゃん!

驚いて振り返ると、足を引っ掛けたのか幼い少女が倒れていた。
からからから、とバケツの転がる音。私は慌てて少女に駆け寄った。
少女は4~5歳くらいだろうか。やけに色白で、小柄な体つきをしている。
よほど痛かったのか、少女は体を起こしながらしゃくりあげて泣いていた。
私はハンカチを差し出しながら少女の手を引いて立たせてやる。

「うえぇ……」
「大丈夫ですか?」
「いたいよう」
「あらあら、血が」

膝を擦りむいていたので、柱に取り付けられた水道で予備のハンカチを濡らし、 少女の傷口に当てる。
少女は私の差し出したハンカチを握り締めて啜り泣く。

「染みますけど、我慢して下さいね」

懐に入れていた印籠を取り出して傷薬を出した。
そうそう、これは私の大切なものの一つ。出先の怪我に備えて薬を何種類か入れているのだ。
取り出した傷薬を傷口に塗って、それから絆創膏を貼ってやった。
少女はぐずぐずと泣いていたが 私が微笑みかけると、涙目で笑ってくれた。

「さあ、ほら、大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ、です」

舌ったらずな発音が可愛らしい。

「あの、ありがとうございます!」
「いえいえ。もう転ばないように気をつけて下さいね」
「はい!ところで、おきゃくさま、ここで何をしてるんですか?」

はっとする。この船は客船のようだ。他の客の気配はないが、甲板から船内の様子が伺える。
船内は暖色のライトが灯されて、床には高級そうな赤い絨毯が敷かれていた。
あまり大きな船ではないようだけれども、清潔感と温かみの溢れる綺麗な内装だった。

「わ、私お客さんじゃないのです。ここに来た理由も思い出せません」
「あれ、まよったんですか?」
よく考えてみれば、客でも従業員でもないのにこの船に乗っているなんて、端から見れば私は不審者そのものである。
だからといって下手に嘘をついてますます怪しまれ、船から放り出されるわけにもいかない。
焦りながら正直に言うと、何でもないことのように彼女が言葉を続けるので、私も続ける。
「はい。えっと、迷った、のです、かね」
「うーん、いきたいところがあるんですね」

行きたいところ。ああ確かに、私はどこかに行きたかったのだと思う。
少女の言葉に一つ、頷いた。

「じゃあ、いっしょにさがしてあげます!」
「え?」
「このふねのこと、よくわからないでしょう?」
「ええ、この船はどこに向かっているんですか?」
「ん~?わかんない」
「?あなたはここのお客さんではないのですか?あ、でも私のことをさっきお客様って」
「はい、ここでおてつだいしてるんです」
「まあ、偉いですね」
「えへへ、じゃあついてきてください!」
「え、あの」

結局船の行く先は分からぬままだ。
少女に手を引かれて歩き出す。しかしすぐに 少女が立ち止まった。

「あっ」
「はい?」
「おなまえは何ですか?」
「名前、は思い出せないのです。ごめんなさい」
「えっ、そんな!じゃあ、何てよべばいいですか?」
「そうですねぇ…」
「えーと…だったら、お兄ちゃん、ですか?」
少女がふにふにした頬を染めながら小首を傾げると、私はその愛らしさに胸がいっぱいになると共に非常に居心地が悪くなる。

「えーと、お兄ちゃん、は恥ずかしい、ですね」

情けなくも少しもじもじとしながらそう言うと、少女はうーんと小さく唸った。
第一、お兄ちゃんという年齢でもないはずだ。私の外見は肉体の実年齢よりも随分と若く見える。
が、私はこう見えて二千…おっと。ともかく私は外見ほど若くはないし、お兄ちゃんと呼ばれるのはどうも抵抗がある。
お爺ちゃん、の方が自然かもしれない。でも、お爺ちゃんと呼んでもらうにはこの少女の方に躊躇いがあるだろう な、と苦笑する。
ふと、考え込む少女の頭に飾られた淡い桃色の花が目についた 。

「おや、可愛いお花ですね」

すると、眉間に小さく皺を寄せていた少女がぱっと顔を上げた。

「これですか?」
大切そうに右耳の少し上あたりにあるその花を撫でながら、はにかんだように笑って続ける。
「えっとね、もらったの…………あ!さっきの!」
「え?」
「さっきのおくすりばこ、見せて下さい!」
「お薬箱、ああ、印籠のことですか?」
「はい、さっきの、あかいはこです」
「いいですよ、どうぞ」

先程の印籠を手渡す。
漆塗りの赤い小さなそれは、私の古くからの持ち物の一つだ。手に入れた経緯は覚えていない。
使用し始めてもうかなりの年月を経ていることはわかる。
けれども、乱暴に扱ってはいないし、時折手入れもしていたため、装飾の美しさも損なわれていない。
少女は金色の蒔絵が施された表面を撫でて尋ねる。

「このお花はなんですか?」
「これですか、菊ですよ」
「きく?」
「はい、菊というのです」
きく、きく、と繰り返しながら少女は印籠の装飾と私を見比べた。

「きく、さん でいいですか?」

「えっ?」
「あなたのお名前です」
「え、き、菊、ですか…」
少し言葉に詰まる。菊という花は確か、あまり縁起の良ろしくない花である。
それに、私はれっきとした男子であるのに女子のように花の名前で呼ばれるのも気恥ずかしい。

「だってきくの花、すっごく、きれいです!ねえ、きくさん!」

目を輝かせてそう言われてしまうと断りづらく、了承するように微笑むと少女もにっこりとした。
それから、きくさん、こっちですよと呼びかけながら私の手を引いて歩き出す。
客船の窓からはからりと晴れた青空と、その青を映したかのような海が見えた。
赤い絨毯の上を進んでいると、ある客室の前で少女が立ち止まった。

「ここ、かなぁー」

少女はコンコン、と空いている手で扉をノックする。返事はない。
ううん、と少女は若干悩んだ様子だったが私をちらりと見上げる。

「きくさん、どうぞ」
「えっ」
「きくさんのいきたいところがよくわかんないの。とりあえず、このお部屋にはいってみたらどうですか?」
「でも、ここ、どなたかのお部屋なのでは」

少女は何も言わずにただ微笑んだ。
私は少しの間躊躇ったけれど、少女が何も言葉を発さないので、扉に手を掛けた。
きぃ、と少し軋んだ音を立てて扉は開く。
途端、視界が眩い光に包まれた。目が眩み、踏み出しかけた足が止まる。
躊躇った瞬間――背中をとん、と押された。


小さな手の感触に、あの少女だと気付く。と、同時に体は前に倒れ、私は慌てて足を前へと踏み出した。