「う、わっ」

少しよろけるようにして着地した。
そっと目を開けて唖然とする。さっきまで確かに私は海の上にいた。
少女に連れられるまま、客室の扉を開いた、はず。
しかし、ここは草や木々が生い茂る―森の中である。
振り返ると扉は無く、背後にも眼前に広がっていたものと同じような景色が続いているばかりだった。
少女の姿もない。海も船も少女も忽然と姿を消していた。

「えっ、あれ、あの」
いきなり見知らぬ場所に一人、放り出されてしまった。
いや、扉を開けると決めたのは確かに私だけれど、だってまさか。
てっきり少女も付き添って道を示してくれるだろうとばかり思っていた私は途方に暮れた。
途方に暮れるついでにいやに視点が低いことに気付いてしまう。
恐る恐る自分の両手を見ると、見慣れた私の手よりも随分と小さい。
まるで子供のよう、いやいやいやいや。

「…………………何ですか、これ」

私の体は間違いなく子供になっていた。恐らくあの少女と同じくらいの年だろう。なんて小柄で頼りない体。
暫しの間呆然としたが、私は勢いよく首を振って自分を奮い立たせた。
とにかく進まなければどうにもならない。草を踏みしめて、奥へ奥へと歩いていく。




「は、はぁ、はぁ……」

しかし、森はかなり広かった。
時折草むらを掻き分けながら進まねばならなかったり、ぬかるんだ泥道を歩かねばならなかったりする上に、
子供の小さな歩幅では歩ける距離もたかが知れている。
平時よりも体力のない体で慣れない山道を歩き続けたせいで、私はひどく疲れていた。
渇いた喉がはり付くようで不快である。
すると、目の端で何かがきらりと光った。目を凝らすと、木々の間から美しい湖が垣間見える。
太陽の光を反射して水面がきらきらと輝いていた。
頭上に木々が生い茂る薄暗い森の途を延々と歩いてきた私の目には、その輝きがひどく魅力的なものに映った。

「み、みず…!」

ふらふらと木々の間を縫って湖に近づく。
視界が開けていき、もう少しで湖に辿り着く、といったところでかしゃんと音がした。
疑問に思う間もなく右足に痛みが走った。

「い、った……!何ですかこれ!?」

それは小さな輪を作ったロープだった。輪の中に綺麗に足が入っている。
どうやら私はこれに引っかかってしまったらしい。
目の前に光る湖に気を取られ、足元の草に埋もれたこれに私は気付かなかった。
しかし何だろうこれは、と不思議に思いながらロープの輪から足を抜こうとした。
が、どういうわけか強く強く私の右足首を縛りつけてくる。
さながら意思を持った生き物のように。

いや、本当に取れません、いたたたた、また締め付けてきました、何ですか、生きてるんですか、このロープ!




四苦八苦していると、いきなり背後から肩を掴まれた。
足元に夢中になっていた私は、背後の気配に気付かなかったため飛び上がって驚く。
振り返ると、金髪の少年が眉をひそめて立っていた。
少年の頭を見て私はぽかんとする。

「何だおまえ、見ないかおだな。こんなわなに引っかかるやつ久々にみた」

幼い声でそう言った子供は、翡翠色の目を瞬かせた。そして、見せて、と私の足元を覗き込んでくる。
しかし、私の視線は彼の頭に釘付けだった。
ひょこりと垂れる、兎の、兎の…………

「うさぎ!!!?」

私がようやくそれだけ叫ぶと、その小さな体がびくっと震えた。

「な、なんだよ!いきなり耳もとでさけぶなよ!」
「いえ、すみません、あの、え、うさぎさん?」
「?見てわかるだろ?」

きょとり。頭に兎の耳を生やした少年は首を傾げた。
その顔の横には、人間の耳もついている。どちらで私の声を聞き取っているんだろう。
混乱する私を他所に 、少年はどこからかステッキを取り出した。
棒の先に星形の何かが取り付けられた、安い玩具のようなそれでちょいちょい、とロープをつつきながらよくわからない呪文を唱える。
すると、しゅるしゅるとあんなに頑丈だったロープが呆気なくほどけていった。
開いた口がふさがらないとはこのこと。私は間抜けな顔で少年の一挙一動を見つめていた。
………何から突っ込めばいいんでしょう。

「あの、ありがとうございました」
「あ、え、べ、別に、おまえのために助けたわけじゃないからな!」
「はぁ…」
「ところで、おまえどこから来たんだ?」
「ど、どこから、でしょう」
「……おれがきいてるんだけど」
「わたしもききたいです……」
「………………」
「………………」
「おまえ・・・まいご?」
「そんな、かんじ、なんですかね………?」

少年がどこか呆れたような表情になった。
いたたまれなくなった私はきょどきょどと目を泳がせる。

「さ、さっきはすごかったですね!ロープが、こう、しゅるしゅると!まるでまほうみたいでした」
「は?まほうだけど」
「………はい?」
「まほうに決まってるだろ、なにいってんだおまえ」
「え、だって」
「まほうなんてだれでも使えるだろ?おれはちょっとまりょくが強いんだけどな 」
「………わたしはつかえませんよ?」
「え?」
「え?」

会話が噛み合わない。魔法って何だ。意味が分からない。
体が子供であるせいか回らない舌が煩わしい。

「えっと、まほうのないところからきたんです」
「そんなところ、この世界にあるのか!?」
「というか、えー…………だってほら、外見からちがうでしょう?
 わたしとあなた。あなたはうさぎさんですがわたしはにんげん、みたいな外見でしょう?」
「にんげん?」
「だってほら、耳が」

言いながらふと湖を見た。
私の姿が水面に映ったのを見た瞬間、言葉を失う。だって、私の頭に、

「確かにおれとはちがうけど…おまえはニンゲン?ではないだろ?おまえみたいなやつ、本でみたことあるぞ?じぶんの種族がわからないのか?」
「あ、あ、あ、うそ、嘘だぁ…嘘です…こんなの、えええ」
「おまえは、ねこ、だろ?」

ちょこんと尖った黒い三角の耳が私の頭に生えていた。ぐらり、目眩がした。




親切にも兎少年はぼろぼろの私を家に招いてくれた。
木で出来た小さな小屋の隅にはよくわからない呪文の書きなぐられた板であったり、本であったりが整頓されて積まれていた。
几帳面かつきれい好きな性格らしい。
壁に書かれた魔方陣を見ながら、勧められるまま椅子に腰かける。

「なにからなにまで、すみません…」
龜に貯めた水で泥だらけの体を清め、彼の服を借りた私はそうお礼を言った。
服を借りて分かったが、私の方が彼よりさらに小柄なようである。
私の目で見る少年はかなり小さいので、さらに私は小さいのかと少しショックだった。

「食うか?」

顔を上げると、目の前に黒い物体が差し出された。固まる。
何ですかこれ。食べられるんですか?
指でつつくとぼろっと崩れた。つついた指には煤のような何かが付着した。
私は黙って、ほんの少し皿を遠ざる。すみません、無理です。
そんな私の様子に気付かず、兎少年は「そうだ、茶葉きらしてるんだった」と呟いて、小さな薬缶に入れたミルクを温めていた。

「あの、さっきのわなはいったい」
「ああ、あれ。ここら辺のやつらはだいたい、さっちしてひっかからないんだがな」
「あのわなは、なんのために」
「おれをつかまえるため」

彼は薬缶から、分厚い二つのカップにミルクを移す。それから私に一つ差し出した。
温かなそれを、有り難く頂く。
一口飲むと、自然と安堵したような息が漏れた。

「つかまえるって、なぜ。だれが」
「おおかみだよ、おまえはあわなかったんだよな?運がよかったな」

狼。

「それも、にほん足であるく?」
「?…………なにが?」
「いえ……」

私の知る兎と目の前の兎が大きく異なるように、
私の想像する狼と彼の言う狼もきっと異なるのだろう。
無理矢理納得する。 私の常識では理解できないのだから。

「おおかみさんはあなたを食べるのですか」
「いや?殺すだけじゃないか?」
「え?」
「食べる、なんて有効活用を、してくれればまだましだよな」
「………ここら辺のやつら、って。ほかのかたは」
「ああ、うん。ここら辺には、ほかにもじゅうみんがいるんだ。
 でも、おれがおおかみにねらわれてるせいで、とばっちりくらうから。おれにはちかづいてこない」
「そんな、」
「それがふつうだろ。だれだってしぬのは怖いよ。生まれたときから、おれは一人だったよ」

普通?一人が。
それは何だか、寂しいですね。

けれど彼にそれを言ってはならない気がして、私は黙り込む。

「おともだちは」
「ともだち?」
「おともだちはいないのですか?」
「ともだち、ともだち……うーん?」

彼の頭には友達、という単語がないようだ。幼い頭をぐぐっと傾け、腕を組んで考え込む。
その様子に、いよいよ悲しくなって、私は続ける。

「ここを、はなれないのですか?」
「なぜ?」
「なぜ、って」
「ここ以外に、どこにいけばいい」

本当に不思議そうに彼は尋ねる。
私はきっと愚かなことを尋ねたのだ。彼の世界はこの一帯にしかない。
たまらず、私は言った。

「…………あの、わたしとおともだちになりませんか」
「おともだち?さっきもいってたな。ねこの文化か?」
「そのような、ものです」
「おれはうさぎだけど?」
「ふふ、おともだちは、外見がまったくちがっていても、なれますよ」
「……そうなのか?よくわからないな」
「てを」
「?」

私が手を差し出すと、彼はますます訳がわからないといった様子で困惑したように眉を寄せた。
それから、恐る恐る私の手を握る。温かかった。

「これで、ともだち、なのか?」
「ええ、
ともだち、です」



彼は、