ゆるり、と目を開ける。
まず飛び込んできたのはパソコンの画面だった。びっしりと細かい文字が表に書きこまれている。
私の両手は軽くキーボードに添えられていて、パソコンの脇には何冊ものファイルが山積みにされていた。
姿勢をそのままに自分の姿を見下ろす。
私は紺色のスーツに、スーツよりやや明るめの同じく紺色のネクタイを締めている。
がやがやと周りが騒がしい。見回すと、私が腰かけているようなデスクがいくつも並んでいて、それぞれに人が座っていた。
かたかたかたとキーボードを叩く音、それから、あそこの契約内容は、とか書類の締め切りが、なんて声が飛び交っている。
ここは、何でしょう…。
何かのオフィス?
「本田」
…ということは、私はここで働いているのでしょうか。サラリーマン?
キーボードから手を離し 、画面を覗き込む。
「本田」
A会社、B会社、C会社とずらりと様々な会社の名前とよくわからない商品名のような名詞が並んでいる。
画面外にはポストイットが貼り付けられていた。私の字だ。
……○日、J会社と商談あり…
「本田!」
「ひえっ!」
がしりと肩を掴まれ、尚且つ凄みのある声でそう叫ばれた。
驚いて振り返る。そこには、金髪を後ろに流すようにセットした、薄い水色の瞳の男性が立っていた。
がっちりとして体格の大きな男性が眉間に皺を寄せて私を見下ろしている。 …ムキムキである。
大きな陰が蛍光灯の光を遮っていた。
こ、怖いんですが…。
「あああ、あわわわわ」
「本田、疲れているのか?さっきから呼んでいたんだが」
「ほ、ほんだ?私のことですか?」
男性は怪訝そうな顔をした。
それから、私の首から下がる社員証を持ち、私に見せた。
青い紐、その先に繋がる白い長方形、ああ私は先程この社員証の存在には気が付かなかったようだ。
「本田菊。君の名じゃないのか?本当に大丈夫か、本田」
名前、それから小さく顔写真まで載っている社員証を私の前に掲げて彼は問う。
確かに私の写真の横に本田菊、と書いてあった。
驚いた、少女が名付けた菊という名はここでも共通だったらしい。
「あ、は、はい、ほん…本田菊です、はい」
「……………………」
彼はそっと私に社員証を返しながら、私を伺うように見つめる。
そのあまりの迫力と 威圧感に、だらだらと汗をかきながら答えた。
「大丈夫です。ええ、少し疲れているみたいです」
答えながら、自分が眼鏡をかけていることに気付く。
気がつけば私は自然な動作で、くい、と眼鏡を押し上げていた。
「…………まあ最近、仕事に追われていたからな」
彼は納得したのかしていないのか、唇を引き結んだまま一人頷いた。
それから、 腕時計を見て言った。
「ああ、本田、昼食の時間だった。行こう」
どうやら私と彼は昼食を共にしているらしい。それで先程から私に声をかけていたのだろう。
私の手首にも腕時計が巻かれている。時刻は12時を少し過ぎていた。いつの間にか同僚、たちは食堂にでも行ったらしい。
私と彼は人の疎らなオフィスを後にする。
「しかし、あそこの会社も困ったものだな。此方も採算ぎりぎりの提案をしているというのに」
「はあ」
この会社の従業員たちは、金やら茶やら様々な髪の色である。それどころか肌の色や瞳の色までまちまちで物珍しい。
そういえば、これまでの世界で出会った彼らも皆私とは全く異なる色だった。
いちいち歩きながら目をやってしまって、隣を歩く彼が不思議そうな目で私を見下ろすのに気付く。私は慌てて彼の話に相槌を打った。
食堂に着き、メニューを開いて定食を頼む。
席についても彼はため息を吐きながら延々と仕事の話をするので、私は話題を変えた。
自分が結局何の仕事をしているのか未だにわからなかったため、彼の話に合わせ続けるのが苦しくなってきたからだ。
「じゃがいもがお好きなんですか?」
話しながらぐちゃぐちゃとフォークの背でじゃがいもを潰す彼に尋ねる。
彼の前のプレートにはサラダやらウインナーのようなもの、それからじゃがいもが乗っている。
主食がないんですが…パンや米は食べないのでしょうか。
「…まあ、好きだから食べているんだが、……本当に大丈夫なのか、本田?」
何か私は変なことを聞いたのだろうか。
内心で焦っていると隣の椅子が引かれる音がした。
「菊、最近そればっかりあるね。また焼き鮭定食あるか」
「え」
視線を向ける。長い黒髪を後ろに束ねた男性が盆を起きながら私の隣の席に座る。
突然、私の脳内に何かが駆け巡った。
「ちゅ、」
「?どうしたあるか?」
「あ、いえ」
私は何を言おうとしたのだろう。焼き鮭を見つめる黒髪の男性は、少し顔をしかめた。
塩をかけすぎある、と呟く。それから、男性は蕎麦に薬味をかけながら、金髪の男性のプレートを見やって言う。
「毎度思うあるが、じゃがいもが可哀想ある…」
「人の食い方にけちをつけるな」
「つけてねーある!でもたまには米とかパンを食えばいいね!
毎日毎日目の前でじゃがいもをぐちゃぐちゃやられると何か気が滅入るある。よく飽きねーあるな。」
「だったら此方に来なければいいだろう…俺はこれが主食なんだ。それに家ではちゃんとパンも食べているぞ。ただここのパンはあまり…ううむ」
言葉を濁して彼は潰したじゃがいもを口にする。
成る程、変な顔をする訳だ。
いつも食事を共にしている相手が、主食を好きかなどと改めて尋ねてくれば、今更何を言うんだろうと思っても仕方ない。
「王、そういえばお前の部署は何かトラブルがあったと聞いたが」
「あーあーあー!迷惑な話ある!いきなり商談を無かったことにしたいって言われたある。穴を埋めるのが大変ね」
王、それがこの人の名前。
憤る彼の首から下がる社員証をちらりと盗み見ると、「王耀」と書いてある。
それから、正面に座る金髪の彼の社員証を見ようとしたが角度のせいで見えない。
蛍光灯の光が反射されて、私の席から見える彼の社員証は真っ白だった。
「此方も最近は残業が多くなった」
「定時に帰れる課なんて殆んどねーある」
「正直、そろそろまとまった休暇を取って帰省したいんだがな」
「帰省。故郷にですか」
私が繰り返すと、彼はレタスを刺しながら言った。
「ああ、―――に。君には以前…確か話したな。あちらに兄がいるんだ。
しっかりしているようでいかんせん抜けているところがあって心配だ。久々に顔も見せたいしな」
彼の故郷を何といったかよく聞き取れなかった。
しかし聞き返すのはよろしくはないだろう。以前に話してくれたそうだから。
誤魔化すのは苦手ではない。
「そうですね。兄弟しばらく離れて暮らしていますと、やはり寂しくなるものです」
「その点、菊は恵まれたあるね」
「え?」
「兄弟揃って同じ会社に勤めていると、家の諸連絡も楽でいいある」
「同じ会社、というのは近すぎるな…俺だったらもう少し距離を置きたい」
「おめーの意見は聞いてねーある!菊も我と同じあるね?」
ぽかんとする。
え、名字が違うのに私達兄弟なんですか。何か複雑な事情でもあるんでしょうか。
混乱を隠しつつ取り繕うように、私は言った。
「え、ええ。私も同じ意見ですよ、兄上」
かしゃん、と二人が同時にそれぞれ箸とフォークを取り落とし、目を丸くして固まった。
また私は失敗したらしい。
ううん、これでも慎重に言葉を選んだつもりでしたのに!
食堂の食器返却コーナーに盆を置く。
金髪の男性は、突然鳴り出した携帯の表示を見て慌てて出ていった。
食堂で彼は、例の話題をこう打ちきった。
「だが仕方ない。俺達にはこうして会社に献身しなければならない責任があるのだから」
申し訳なさそうに此方に片手を上げながら先に行ってしまった彼を見送った後、 王さんの後に続いて私は歩き出した。
職場までの廊下を歩く。王さんがずっと黙ったままなので、私も下手に口を開けない。
ふと、王さんが立ち止まった。窓から柔らかい陽射しが注ぐ。
「菊」
「……はい」
「いや、――」
「………?」
何と呼ばれたか、聞き取れない。辺りはこんなに静かなのに。
………静か?先程まで、 廊下を行き交っていたスーツの群れが忽然と消えていた。
静寂。しかし、私は周囲から人が消えたのを視覚で認識できない。
王さんの背中から、目が逸らせない。
「全く、人間は大変あるね」
「あ、」
初めに食堂で王さんを見たときの感覚が過る。
先程と違うのは、それが胸に落ちてきてじわりじわりと波紋を広げていくことだ。
私は、私は、
「さあ、帰るあるよ」
「でも、もう休憩時間が終わり、ますし、みなさん、が」
みなさん。皆さん。
あれ、誰を指して私は言っているのだろう。様々な出会いが 頭の中を駆けていく。私は。
色んな記憶が錯綜して、混乱する。「王さん」が此方を振り返った。
「自分が誰のために生きていたのかも、忘れたあるか?お前が、かつて我に刃を向けてまで前に進もうとしたのは、」
ああ、ああ。私、私は、
「…………中国さん」
また、意識が遠のく。しかし今度こそ、私は思い出した。
はっきり、と。
私は。