「え、えーと、こんにちは」
「……………………」

扉を引いた綺麗なロングストレートの黒髪の女の子に睨まれた。
可愛い、でも怖いよう。それから、ピシャリと閉められそうになったので慌てて止めようとする。
がこん、扉の間に勢いよく足を挟んでしまった。

「ヴェー!!!いたいいたいいたい!」
「わ、わ、ごめんなさい!」
女の子は申し訳なさそうにすぐに扉を閉めようとする力を緩めてくれた。
でも、開けてくれようとはしない。扉と壁の隙間から見える女の子は、さっきまでじゃないけどやっぱり軽く俺を睨んでいた。
可愛い女の子って、睨んでても可愛いよね、ああ違った。そうじゃなくて。

「あの、日本に、会いに来たんです、けど」
「……………会ったって貴方のこと分かりませんよ、日本さん」
「………分かってるけど…」

あの日、すぐに日本は家に帰されたらしい。
次の日には日本の姿はなくて、アメリカが既に色んな手を打っていてびっくりした。
極秘に日本と、中国を含む付き添い四人を出国させて、五人の穴をさりげなく埋めて。まあ、会議があんまり実を結ばないのは、いつものこと。
いきなり四人もの人数に付き添われて会議を早退した日本を心配する他の国に、悟られないように普段通りに振る舞うのは大変だったんだから。
嘘をつくのに疲れちゃって、居眠りをするふりをする俺に、気づかないふりをしてくれたドイツの心遣いが有り難かった。

「だって、何もしないのも辛くって」
しゅん、とした俺に初めて女の子…「台湾」は眉間の皺を緩めて俺を見上げた。

「…………貴方たちの」
「え?」
「貴方たちの、せいじゃないかって思ってました、だっていきなりだったから、 貴方たちが何かしたんじゃないかって」
「…………」
「でも、この数日間日本さんと一緒にいましたけど。もしかしたら、どちらかっていうと」

「台湾さん?」


聞き慣れた声がした。日本だ。廊下の奥から、日本がいつもの和服を着て近づいてきた。
その後ろに中国も立っている。

「に、日本さん」
「どうしたんですか?お客さんですか?…………?どなたもいらっしゃらないみたいですが」
台湾の肩越しに俺、正確には扉の隙間から見える外を覗いて日本は言う。

「ね、猫がいたんです!」
「………にゃー」
誤魔化すように笑ってそう言った女の子の嘘に合わせて、俺はつい猫の鳴き真似をした。

「…………逃げちゃいましたけど」
女の子は呆れたように俺を振り返りながら、日本に言った。
そうか、声も聞こえないんだった。ああ、俺、透明人間みたい。
それから女の子は俺の顔を伺うように見て、「すみません。やっぱり今日は帰、」と小声で囁く、
けども日本の背後にいる中国が、無言で廊下の奥を指差して俺に家に入るように促した。

「え、だって、大丈夫なの?」
「え?どうしました台湾さん?」
「い、いえ…」
女の子は少し迷ったみたいだったけど、さりげなく扉を俺が通れる隙間分開けてくれる。
お礼を言いながら滑り込むと、すぐにぴしゃりと扉は閉められた。

「日本」
「はい、何ですか?」
「夕飯の買い物に行くんじゃなかったあるか?」
「ああ、もうこんな時間でしたか!」
「あ!日本さん、今日も私ついていっていいですか?」
「構いませんよ、一緒に行きますか?」
「はい、もう私このまま出かけられますから」
「では少し待っていて下さいね」
そう言って日本は一度奥に消えて、すぐにお財布と紺の鞄を持って戻ってくる。
それから、玄関に降りて草履を履こうとするので、俺はハッとして、慎重に日本の横をすり抜けて家に上がる。
ぶつかったら大変なことになっちゃうから。

「では行って参ります」
そうやって、日本は女の子と二人で家を出ていった。
扉の向こうで二人の足音が遠ざかっていく。暫し沈黙して、中国が言った。

「そろそろ連絡が来るとは思ってたあるが、実際に来るとは思ってなかったあるよ」
「だって此方からの連絡がシャットアウトされてるみたいだったから…日本に来るのも大変だったんだよ…」
「…まあ、そうあるね」
「えっと、ドイツも来るんだけど…時間ずらしたんだ、だから…」
「わかったわかった、もしも日本が帰って来てからの到着になるなら
 またさりげなく入れてやるある。我は明日まで日本から離れられないらしいあるから」

中国がひらひらと手を振って奥に進むので、俺も後に続いた。






「私、実は今日が日本さんのお家にいられる最後の日だったんです…」

日本さんの隣を歩きながら私は言った。そう、本当はこっそり荷物だってまとめている。
ずっと言い出せなくて、ぎりぎりでの報告になってしまった。
今日の買い物だってあいつが付き添うはずだったんだけど、あの人の訪問で予定が狂ってしまった。
まあ、だからこそ今日もこうして日本さんと二人で歩けて私は嬉しいんだけど。

「まあ、そんな急に…」
「だから、お夕飯はあの人と食べて下さいね」
「もう少しゆっくりしても…ああでも、もう一週間でしたね」
「ええ、結構ゆっくりしていましたよ、私。ふふ」
「韓国さん達ももう帰ってしまわれましたし、中国さんもそろそろ帰国しないと大変でしょうし…ああ、また寂しくなりますね」
「…日本さん」

下手なことをして混乱させることが怖いから。
この国の方針で、もう日本さんの記憶を刺激することのないように、私たちは普段通りに日本さんに接した。
日本さんの家には欧米の物も当然にあるのだけれど、都合のいいことに日本さんはそれらについて特に気にする素振りもなく使用していた。
それから私たちは日本さんの上司に一人ずつ、ゆっくりと日本さんから離れるようにと頼まれた。
私たちが傍にいても回復の兆しがないようなら、日本さんは国の保護下での生活に切り替えられてしまうらしい。
生命保護、かつ原因究明のために。研究者に囲まれて、脳波とか細胞とか、そういったものを詳しく分析される。
こんな風に、外を歩けなくなる。日本はもう鎖国政策なんてとっていない。
観光や勉学のためにやって来た欧米人がそこらじゅうを歩いている。
すこしでも彼らとの接触を断つために、日本さんは閉鎖的な施設に閉じ込められてしまう。
日本さんは、それを知らない。
ああ、私では間に合わなかった。もうあの人で最後だ。何だっていい。
あの青年の訪問で、何か変わってくれればいい。

「………はぁ」
タイムリミットは、明日。








幸い、ドイツは日本が出てすぐにやって来た。俺が携帯で連絡しておいたから、すんなり家に入ってくる。
気まずい沈黙の中で俺と中国は炬燵に入って二人向き合っていたので、ドイツが来たと知ると俺は真っ先に走って行ってドイツに飛びついたのだった。

「おいイタリア…廊下は走るなと前にも日本に言われただろう」
「ヴェ、だって怖かったんだもん…中国喋んないだもん…」
「おめーが喋らねーから我も黙ってただけある」

それから、三人で炬燵に座る。
ドイツが、昨日俺たちに告げられた報告についての話を切り出す。

「日本の今後の方針が決まったんだろう?」
「決まっていた、が正しいある。我が明日まで様子を見て変化がなければ日本は別施設に送られるある」
「施設って、そんな」
「心配すんな、どこぞのメタボんとこのスタッフも混じってるらしいある。不当な扱いは受けないと思うね」
「その他、此方に届いていない情報はあるか?」
「さあ、我自身まだわからないことが多いある。こちらは逆に閉鎖的あるから」
「では、あの日すぐに引き上げて行っただろう?そのときの様子の話でもいい」
「何でもいいんだ、待ってるだけはやっぱりどうしても俺たち、出来なくて」

「…………あの日、あるか」

中国は、少し口を摘んだけど、俺たちの顔を見て口を開いた。

「………あの後、我が日本の家に来て一番始めにしたことは片付けだったある。あれは、大変だったね」
「…?珍しいな、あの日本がそれほどまでに部屋を整理しないまま会議に来ていたのか?」
「ああ、この部屋じゃないある。……書斎あるよ」
「書斎?」
「日本が過去何十年分という日記を広げてたある」
「日記?…何十年分って」
「大方、整理しようとでもしてたんじゃないあるか。とにかく、ここ数十年、いや、遡れば百年以上前のものもあったある」
「読んだのか?」
「人聞き悪いこと言うんじゃねーある!まあ、片付けるときに見えた部分は少しは読んだあるが」
「何が書いてたの?」
「おおよそ、何が起きたかと天気や日付は共通。あとは気ままに和歌詠んでたり、写真を貼り付けていたりしたページもあったある」
「へー」
「それで?何か引っかかることがあったんだろう?」
「…………」

言葉を切って、中国は目の前の湯飲みに手を伸ばした。
お茶を啜って、一息吐く。

「日本は」
「………」
「お前ら欧米列国との出会いが随分と衝撃だったらしいある」
「へ?」
「……我は、日本の気持ちなんて知らねーあるよ。でも日記を見ていてそう思ったある。広げられていたページは全部開国後の日付だったね」
「衝撃的ってどういうこと?」
「うーん…そうあるね、とにかく…驚いたとかそういう単語が多くて、あと色が云々書いてたある」
「色?」
「お前らの名前を書き綴るときに、出会い初めは色を共に書いてたある。たとえばあへん野郎だったら”翡翠の目の”って」
「日本人は真っ黒な人が殆どだったもんねー」
「色か…確かに俺達の目も髪も日本とは全く異なる色だな」
「そういった形容が、現在に近づいていくにつれ減って、ついに殆どが無くなったある」
「そりゃあ、見慣れちゃうよねーいちいち驚かなくもなるよ」

俺がそう言うと、中国は「それある」と俺を指差してきた。
「な、なにが?」
「…まあ、お前らにはわかんないあるな、我もよくわからんあるから」
「どういうことだ?」
「―――日本が島国であったこと、それから一気に世界を知ったこと。そして適応していったこと」
「?」
「要はそういうことじゃないあるか、と我は思っただけある。確証はないから…言わないあるが」


中国の言っていることがわかんなくて俺は首を傾げた。
ドイツもわかんなかったのだろう、口を開こうとして――

「ただいま帰りましたー」

日本が帰ってきたので俺とドイツはこそこそと部屋の隅っこに移動したのだった。