「にほん」
「ええ、日本、です」
「にほん、ここもちがったの?」
再度問われた。私は俯く。
沈黙した私から目を逸らして、少女は真ん中に置かれた籠から一つ、蜜柑を手に取った。
器用に小さな指で皮を剥いていく。
一つ、実を分けて袋ごとぱくりと口に運んだ。
私は少女がもぐもぐと実を咀嚼する様子をぼんやりと眺め、そしてずっと気になっていたことを彼女に問う。
彼女の質問に答えないまま、重ねるように質問をすることを失礼だとはわかっていながら。
かち、かち、かち。時計が時を刻む音がする。
「あなた、だけは、どうして違う、のですか?」
「ちがう?」
ぱくり、また一つ、少女が蜜柑を口にする。
「他の、世界、に行く度に。出逢う人たちは違うのです。
中国さんたちを除いて、同じひとには一度も会いませんでした」
「……………」
かち、かち、かち。
私の話を聞いているのかいないのか、少女は手を動かす。
実を分けるとき、爪が食い込んだのか橙色の飛沫が飛んだ。
彼女の白いフリルのエプロンを汚してしまう。私は構わず続けた。
「世界、だって。少しずつ、私と出逢う人たちは種族は違えど少しずつ私に合わせて成長していました。
初め、まあ…変な耳は生えてましたけれど、私の外見年齢はおよそ4~5歳の子供でした。
それが、段々と成長していって、人間として最後に経験した世界ではもう立派な成人でした」
「………………」
少女は半分ほどになった蜜柑の実を見つめていた。
それからまた、手を伸ばして実を分ける。
「あなただけは、私が各世界の中で少しずつ成長しても、その幼い姿で現れました。
そして何度も何度も、道を示してくれましたね。
あなただけは、違いました。
まるで、案内人のよ、「ちがうよ」
とうとう実を食べきった少女は、私の言葉を遮った。
ショートカットの頭を俯かせて彼女は呟くように言った。
「いつも、えらんでいたのは、にほんでしょう?
あんない?ちがうよ、いっしょにさがしていただけだよ」
「探す?何をですか?」
「にほんが、しあわせだって、ずっとそこにいたいと思える、ばしょ」
すとん、と何かが私の空白に埋まった音がした。
頭が、きん、と冴えてくる。
「…………………私、」
私の、幸せ。私の、居場所。ああ。
「私、本当はずっと会いたかったんです………」
溢すように私が呟くと、小さな少女ははっとしたように顔を上げ、身を乗り出した。
「だれに?」
「え?」
「だれに会いたいの?」
「誰…誰、に?」
かち、かち。時を刻んでいた時計の音が止んだ。
私は瞬きも出来ず、子供を見つめる。
無音の世界、小さな子供がまた繰り返した。
「だれに、会いたいの?」
誰…誰……?誰だろう。私の、居場所。ああ、ああ、ああ。
急に、冴えていた頭がひどく痛み出す。
がんがんと痛みの響く頭に思わず手をや って、強く目を瞑った。
目蓋の裏は暗闇で、しかしちらちらと様々な色が点滅する。
ちかちかと、けれども多様な色たちが。
「あ、わたし、帰らなくては、」
自然と口から言葉がこぼれた。私は静かに目を開いていく。
いつの間にか席を離れ、隣に腰を下ろしていた少女が私の手を取った。さらさらと細い髪が揺れる。
私のような漆黒ではない、紅茶のような薄い色彩だ。
少女は黙ったまま、目を潤ませた。そして声を詰まらせながら、ゆっくりと私に尋ねる。
「かえりたいって思う?ほんとに?」
やや舌ったらずの問いに合わせて少女が少し首を傾けると、くるりとした髪の一部がぴょこんと揺れた。
………少女?ああ、違いましたね。
目を閉じる。
点滅していた色達がかたちを作っていく。
まるで映画のフィルムが 流れるように、様々な記憶が目蓋の裏に展開される。
私を引きずるようにして、彼が襖を開いた、その先に広がっていた世界。
太陽と 、反射する彼の金色と。
眩しくて思わず目を細めた。私の手を取ったまま、彼は 無邪気に笑っていた。
「ねえ、見なよ!これが世界だよ!」
冬の夜、落ちてきそうな星空の下、互いに必死だった。
闇の中でもすぐにわかる 翠色を瞬かせて、彼は白い息を吐く。
不器用な私達が手を結んだあの日、照れた ように彼は言った。
「俺たち、友達、だよな!」
目まぐるしく、これまでの生活を一変させた慌ただしい日々。
躍起になって、異国の文化を学ぶ私がふと名前を呼ばれて顔を上げると、
苦笑する空色と視線がぶつかった。
「そんなに慌てなくても、お兄さんは逃げないよ!」
世界中が緊張していたあの時代。
一度大きな戦をした彼とほんの少し、話をした。真夏、私の家。
慣れない暑さにぐったりしながら、しかし彼は薄紫を輝かせながら私の庭を眺めて言った。
「僕、向日葵に囲まれて暮らすのが夢なんだ。それだけ、なんだよ。」
それから、寒い冬の日。炬燵、蜜柑。
さらさらと、金髪を後ろに撫で付けた彼が 署名する。それを見ながら、私は蜜柑を一つ取って、
炬燵に上半身を入れて座布団をニ、三枚顎の下に積み上げて敷きうつぶせに寝転がる
――紅茶のような、淡い色彩の、彼の頭に乗せてやった。
頭に橙色を乗せたまま、此方を振り返ってふにゃりと笑ったその顔に私と彼は笑みを溢したのだった。
それから私は、金髪の彼からペンを受け取って、
私には読めやしない筆記体のスペルで綴られた二つの名前の下に、名前を。
鮮やかで、私とは違う彼らの何もかもが恐ろしくて、大きくて、でも温かい人たち、私の、大切な。
次々と再生されるそれらを振り切って目を開けた。
変わらず私を見つめていた少女の目はまだ辛うじて涙を溢していない。
その泣きそうな表情は、記憶の中のあの子の面影が色濃く残っている。
ああ私、どうして、気が付かなかったのでしょうね。
頭の痛みは引いていたが、今度は耳鳴りがする。
ノイズ、いや違う、これは声だ。
私を、呼んで、いる。
「私、ずっと探していました。様々な、世界を。
でも、出口は、入り口にあったんですね。
私は、見つけたかった訳じゃないんです。
帰りたかったんです。怖かったけれど、本当は。」
「日本、」
はっきりと発音された私の名前。
私はしっかりと、両手で幼い少年の温かな手を握り返した。
「ええ、私、帰ります。帰りますとも。だから、ねえ、いつものように笑っていて下さいね、イタリア君」
瞬きを一つ、それからにっこりと、涙目で優しい子供が笑うのを私は見た。
瞬間、私の意識は途絶える。飲み込まれるように、暗闇へ。
暗転。
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