静寂。
そっと目を開く。私は小路に立っていた。
雲一つない青い空。沢山の十字架が道に沿って延々と並んでいる。
空気はひんやりと冷たかった。また少し目線が高くなっている。というよりも、戻っているというべきか。
現在18、9歳といったところだろう。
当然のように、少女の姿はない。

私は真っ黒なスーツを着ている。ネクタイも真っ黒。
まるで喪服だ。いや、喪服なのだろう。
整然と続く十字架たち。




「驚いた。君も誰かに会いに?」


背後からの声に突然そう問われた。
振り返ると一人の青年が立っている。
青年はウェーブがかった美しい金の髪を緩やかに後ろで纏めていた。
彫刻のように整った顔立ちに、陶器のように白い肌、すらりとした体躯。
髪と同じ色の長い睫毛に縁取られた青い瞳が私を捉える。彼は、真っ黒なスーツを着ていて、それがまた彼の金によく映えた。
頭の先から足の先まで真っ黒な私のような者には少し眩しく見える。

「いえ…ええと」
「?」
「………あの」

行く宛てすらないのだ、会うべき誰かなど私は知らなかった。
どの世界でも私はこうだ。だが、私は今までの体験上、何となく彼と行動した方がいいような気がした。
彼の他に人は見当たらなかったし、沢山の十字架に囲まれたまま一人にされるのは心細かった。

「少しだけ、お供させて頂いてもよろしいですか………?」

青年は少し考えた様子だったが、やがて微笑んで頷いた。
私は小さく礼を言う。 彼は右手に何本もの大量の百合を抱え、左手に水の入ったバケツを提げていた。
ここは、今までの世界と異なってひどく静かだった。
厳かで、とても。

「少し時間かかっちゃうけど、いいの?」
「構いませんよ」
だから、置いて行かないで下さい。
私は彼の隣に並んで、歩き始めた。





ある地点に辿り着くと彼は立ち止まる。
「昨日はここまでだったはずだから」
そう呟いて、彼は膝をつき、百合を一輪、ある十字架の前に供える。
それから祈りを捧げるように目を閉じる。彼の様子を見て私も慌てて目を閉じた。
しばらく沈黙していたが、いつまで目を閉じればいいのか分からず、そっと薄目で彼の挙動を伺おうとする。
すると、くすくすと笑い声が聞こえた。ぱっと目を開けると 彼が此方を見て笑っている。
私は随分長々と目を閉じていたらしい。頬にみるみる熱が集中するのが分かった。
ああ、恥ずかしい!

「あ、あああ、あの!」
「ふふ、さあ次、行こうか」
「は、はい。すみません…」





五つ目の十字架に百合を供えた彼の背中に尋ねる。
「いつも、こうやって?」
「うん、日課だからね。次の日には前日に供えた花を彼らが受け取って持って行ってしまうから、目印がなくて迷っちゃうよ」
「看板を立ててみたらいかがでしょう。今日はここ!って。」
「あ、いいね、それ。でも多分子供たちが不思議に思って引っこ抜いちゃうだろうからなあ」
「子供たち、ですか?」
「いつも土の中だから面白みがなくてつまんないんだろうね」
「え?じゃあ百合を受け取って持って行ってしまうって」
「ここに眠っている本人たちが、だよ」
「…………あの、此処って貴方以外の人間は」
「……………」

彼は曖昧に微笑んで立ち上がった。
私もそれ以上何かを言うことができず、再び歩き出す彼に続いた。
ざり、と足元で砂利を踏みしめた。





私と彼は一つ一つの十字架に百合を供えて、少しずつ歩を進めていった。
やがて百合は減っていき、最後の一輪になる。

「最後ですね」
「うん」
「減りましたねえ」
「そうだね、…………ああ」
「?」
「今日の最後は君だったか」

彼はそう言って、数歩先に進み出て、今日百合を供える最後の十字架に顔を向ける。
私より背丈の高い彼の後ろからはよく見えない。私は彼の背後から背伸びをするようにして覗き込む。
そこにあったのは、焼け焦げた十字架だった。
他とはあまりに異なるその一つの有様に、私は息を飲む。
真っ黒に焼けた十字架は、それでも十字架の形を保ってひっそりと立 っていた。
十字架に刻まれた名前は煤で汚れてよく読めない。
彼は気にせず、バケツを下ろすと私に「持っていてくれるかな」と最後の百合を手渡す。

彼は腰を屈めてバケツの水を自らの両手で掬った。
それから静かに、煤けた十字架にゆっ くりとゆっくりと水を垂らす。
彼の白い手から零れていく水が、十字架を伝い地面に染み込んでいく。
まるでそれが神聖な儀式であるかのように、私は目も逸らさずにただじっと見つめていた。
それから、彼はそっと濡れた部分に触れる。指を滑らせて、名前の刻まれたところを撫でた。何度も。
しかし、黒い汚れは一向に変わらず刻まれた名前を隠し、彼の指は白く美しいままである。


「いつもだよ」
「いつも」
「そう、いつも。俺の手は汚れないんだ」
「ええ…………」
「彼女はいつも、こうなんだ。こうだったんだ、いつも彼女だけが汚れてしまうんだ」
「……貴方の大切な方なのですか」
「大切、だったよ。でも唯一ではないんだ。
 俺にはまだたくさん、会いに行かなくてはならない大切な人たちがいる、彼女は、唯一では、ないから」
「……まるで言い聞かせるように仰るのですね」


彼は静かに私を振り返った。
そして悲しく笑う。私の手から百合を受け取って、 十字架の前に供える。
そして、少しだけ目を閉じて祈る。
私も倣って目を閉じ、 見たことのない女性に祈りを捧げた。
ゆっくり、目を開く。また一度、刻まれた名前を撫でると彼は言った。

「今日はここが最後だったんだ。あとは、また明日。
 こんなにたくさんあるから なかなか終わらなくて大変だよ。これから君はどうする?」

私は力なく首を左右に振る。
彼とこれ以上この道を歩いていくのは、あまりにも、切ない。

「私はここで」
「そう」
「はい」

「………ありがとう、久々に人と話せて嬉しかった」


彼はそれだけ言って、また道を引き返して行った。
青い空、小路の両脇に延々と 続く十字架たち。彼の姿はやがて見えなくなった。
それから私は目の前の十字架 に視線を移す。



「ここは、悲しすぎますね…」

一つ、涙が溢れた。彼が残した百合と、焼け焦げた十字架の前で、とうとう私は泣いてしまう。
この一帯に乱立する十字架の数々。その数だけ彼には別れがあったのだ。
彼はきっと何日もかけて、一つ一つに祈るのだ。
ようやく端までたどり着けば、初めから繰り返すのだろう。この小路を辿って。
それを思うと、またぱたぱたと足元に滴が落ちた。




何故だか、私も彼の痛みと切なさを知っているような 、気が、した。